さいたまの観光・国際交流情報
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さいたま市の歴史

旧岩槻市の歴史

 岩槻市は、さいたま市の東部に隣接し、市域の中央部と北東部にある岩槻台地と慈恩寺台地のほか、南北に流れる元荒川、綾瀬川沿いに広がる平坦地から形成され、標高差が少ない比較的平坦な地形となっている。面積は49.16平方キロメートルで東西に約5キロメートル、南北に約15キロメートルのほぼ長方形の形で、河川、台地縁辺部の緑地、屋敷林など自然環境に恵まれた地域となっている。
 岩槻の地名は、室町時代初期の永徳2年(1382)に『長谷河親資着到状』という古文書の中で初めて「岩付」として登場しており、現在の「岩槻」の字が使われ始めたのは江戸中期からである。槻はケヤキの古名で、城の土塁や町の随所にケヤキが植えられていたことからこの字が当てはめられたといわれている。
 岩槻周辺は、江戸時代頃まで利根川(現在の古利根川)、荒川(現在の元荒川)などの大河が流れ、また東北地方に通じる主要な街道が通るなど水陸交通の要衝であったため、軍事上の拠点として重視され、室町時代の後半に岩槻城が築城されている。
 江戸時代に日光東照宮が造営され将軍の日光社参が始まると日光御成道が整備され、宿場町としてまた城下町として、武蔵国東部の中心地として大いに栄えた。この頃に日光東照宮の造営、修築にあった工匠たちがこの地に足をとどめ、人形づくりを手がけたのが岩槻人形の始まりと伝えられている。
 明治4年、廃藩置県により岩槻藩が廃され岩槻県となり、浦和県などとともに埼玉県となった。このとき埼玉県庁は岩槻に置くと定められたが適当な施設がないため、浦和に県庁が置かれることになった。
 昭和29年に、岩槻町、川通村、柏崎村、和土村、新和村、慈恩寺村及び河合村が合併し岩槻市となり現在に至っている。
 平成17年3月1日現在の岩槻市の人口は、111,927人(男56,559人、女55,368人)、総世帯数は42,123世帯で、土地利用としては、東武野田線沿いの岩槻駅及び東岩槻駅を核とした市街地が帯状に形成されているほかは、市域の約8割が市街化調整区域で、主に田畑等の農地として利用されており、稲作を主体とした田園が形成されている。
 鉄道は、大正13年に武州鉄道岩槻・蓮田間が開通し、後には神根(川口市)まで延伸したが、経営不振のため昭和13年に廃止された。昭和4年には総武鉄道大宮・粕壁(春日部)間が開通した。後に東武鉄道と合併し、東武野田線として整備され、東京都心とは大宮駅、春日部駅経由で結ばれている。 道路は、東西に横断する国道16号、南北に縦断する東北自動車道及び国道122号が走っており、交差部には岩槻インターチェンジがあるなど交通の利便性の高い地域で、工場や流通系の事業所などの集積が数多く見られる。
 岩槻駅周辺では、歴史的資源や人形店などの集積を活かし、個性的で魅力ある商業環境作りとともに潤いのある住環境の整備を目指した土地区画整理事業が進められており、駅西口の開設や既成の市街地の整備と併せて一体的な整備が計画されている。また、浦和東部地区に隣接する南部地域は、新市街地の整備として、埼玉県の国際アメニティタウン構想に基づくまちづくりが展開されており、地下鉄7号線の延伸による新たな南北方向の交通軸の実現により、沿線地域の計画的な土地利用の誘導や岩槻駅を中心とした歴史や人形などの観光資源を活用したにぎわいの創出が期待されている。
※新さいたま市誕生「さいたま市・岩槻市合併の記録」から抜粋
→ 旧浦和市の歴史
→ 旧大宮市の歴史
→ 旧与野市の歴史
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