さいたまの観光・国際交流情報
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さいたま市の歴史

旧大宮市の歴史

 大宮市は、東は岩槻市、西は川越市、富士見市、南は浦和市、与野市、北は上尾市、蓮田市と境を接し、市の面積は89.37平方キロメートル、東西に14.0キロメートル、南北に10.3キロメートルとなっている。市域は大宮台地からなる中央部と東部、荒川沿いの低地の西部とに大きく分かれるが、大宮台地の間にも芝川、鴻沼川、鴨川などの河川が入り込み、複雑な地形となっている。
 大宮という地名は、平安時代の『延喜式神名帳』にも載せられている格式の高い武蔵国一の宮・氷川神社を「大いなる宮居」とあがめたことに由来するといわれ、その門前町として発生した。
 氷川神社の一の鳥居から三の鳥居までの参道約2キロメートルは、かつては中山道の一部で集落も形成されていたが、寛永5年(1628)に中山道を西側に付け替え、集落も現在地に移転させ宿場町として整備した。こうして、大宮は氷川神社の門前町から中山道の宿場町へと変化していった。 明治2年、大宮県が設置され、大宮は宿場町から行政の中心へと変化していくと思われたが、すぐに浦和県と改称、県庁も浦和に移された。また、明治16年には高崎線が開通したが、大宮には駅が設置されず、政治・経済ともに衰退する兆しが見られた。これを危惧した白井助七を中心とした町の有志は、大宮駅開設運動を展開し、2年後の明治18年に待望の大宮駅が開設された。「鉄道の街大宮」の始まりである。
 その後、信州資本を中心とした製糸業が大宮に進出し、製糸工場が続々と作られた。また、明治27年には日本鉄道株式会社大宮工場(現JR大宮鉄道工場)が操業を開始し、昭和に入ると総武鉄道(現東武野田線)、省線電車(現京浜東北線)、川越線などが相次いで開通するなど、交通の要衝となり、鉄道の街として新たな発展を遂げ始めた。さらに、9号国道(現国道17号)の開通など交通網の整備も進み、工場の進出やそれに伴う人口増は、大宮の都市化を促した。
 大正10年には約1万9千人であった人口も、昭和10年には約3万4千人に急増し、都市機能の整備が求められるようになり、理想的都市建設の気運が高まっていった。
 昭和15年に大宮町は周辺の日進村、三橋村、宮原村、大佐土村と合併し、県下5番目の市として大宮市が誕生した。市制施行時の人口は約6万人で、その後も人口流入は著しく、大宮駅周辺のみならず、宮原駅、日進駅、大和田駅周辺にも商店街が形成され、多くの消費者が集まるようになり、商業都市としての役割が強化されていった。また、一方で関東大震災を契機として、東京から盆栽業者が多数移住し、現在世界的に知られている「盆栽村」が作られた。
 昭和30年には指扇村、馬宮村、植水村、片柳村、七里村、春岡村の6村を合併し、市域はそれまでの2倍の88.85平方キロメートルに、人口も2倍以上の約14万5千人となり、県下最大の都市となった。
 昭和50年代後半からは交通新時代を迎え、昭和57年には大宮駅を起点として東北・上越新幹線が開通し、翌年には 埼玉都市交通伊奈線が開業、さらに昭和60年には新幹線が上野まで延伸した。また、同年には埼京線も開通し、大宮駅には9つの路線が集中する全国屈指のターミナル駅となった。これら交通機関の整備は、大宮駅東口に対して整備が遅れがちであった西口地区の再開発を促し、昭和62年にはプラネタリウムが楽しめる大宮市宇宙劇場を併設した大宮情報センター「JACK大宮」が、翌年には関東平野を一望できる商業・業務の複合施設「ソニックシティ」が落成し、大宮の新しいシンボルとなった。
 交通網の整備はさらに続き、平成4年の山形新幹線の開業、平成9年の秋田新幹線、北陸新幹線(長野新幹線)の開業、埼京線の恵比寿駅への延伸、成田エクスプレスの運行開始と相次いだ。
 こうして、鉄道の街から県下随一の商業都市へ、そして首都圏の業務核都市、埼玉県の中枢都市へと多彩な発展を遂げてきた大宮市は、その新たな飛躍と発展に大きな期待が寄せられている。
※さいたま市誕生「浦和市・大宮市・与野市合併の記録」から抜粋
→ 旧浦和市の歴史
→ 旧与野市の歴史
→ 旧岩槻市の歴史
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