与野市は、周囲を浦和市、大宮市に囲まれ、面積は8.29平方キロメートル、東西3.5キロメートルと南北に細長い。市域の大部分は大宮台地上に位置しているが、市の中央部を流れる鴻沼川の両側には東西に低地が広がっている。
与野という地名の由来は明らかではないが、「与」には「○と○の間」という意味があり、与野とは「台地と台地の間にある原野」と解釈される地形・立地条件説、労働力を提供する代わりに金品を出す「米納」、「余納」や一定の租税を賦課できない不安定な土地「余野」などの言葉からの転訛説など、いくつかの説がある。
また、与野という地名が歴史資料に初めて表れたのは、正和3年(1314)に成立した『融通念佛縁起絵巻』で、その詞書に「与野郷」とあり、その名が当時遠く京都まで知られていたことがうかがえる。
鎌倉時代には、鎌倉街道の一部である「羽根倉道」が通り、室町時代には市場が開かれていた。江戸時代になると、甲州街道と奥州街道を結ぶ脇往還の町場となり、また、羽根倉河岸など荒川の舟運による近隣の物資集積地、市場の町として栄えた。市は、「四・九の市」といわれ、毎月四と九がつく日に開かれる六斎市であり、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に「道の左右軒を連ねたること、宛も都下に似たり」と記されているように、当時の賑わいを知ることができる。ちなみに同書には与野の戸数を304軒、浦和を208軒、大宮を200余軒と載せている。
与野の中心で、埼京線西側を南北に走る本町通りは、市が開かれた場所であり、また桜並木の美しい所として知られていた。明治末年に与野町を訪れた民俗学者柳田国男は、「桜並木の最も美しきは埼玉県与野町なり」(『豆の葉と太陽』)と称賛している。
明治22年、町村制の施行により与野町は、周辺の上落合村、下落合村、中里村、大戸村、鈴谷村、上峰村、八王子村、円阿弥村、小村田村の9村と合併し、新生「与野町」が誕生した。
市場の町として栄えていた与野も、明治16年高崎線が、ついで東北線が開通し、物資の流通形態が変化してくると、衰微の微候が表れてきた。そこで、地元の有志たちが与野駅開設運動を展開し、大正元年ついに与野駅が開設された。その後、昭和7年に省線電車(現京浜東北線)が開通し、昭和9年には9号国道(現国道17号)が開通すると、商業・工業活動の中心は、本町通り周辺から上落合、下落合など東部地区に移っていった。9号国道沿いには新たにトラックボディ工場を始め、自動車の部品・修理工場、また販売店など自動車関連産業が多数進出し、昭和30年代には「自動車の街与野」といわれるようになった。
昭和33年、与野町は単独で市制を施行し、県下20番目の「与野市」となった。その後、市域は小さいながらも、市民の住みやすい「きらりと光る市民都市」実現を目指し、都市基盤の整備に努めた結果、道路舗装率、上・下水道普及率などはほぼ100パーセントに達した。
昭和60年、埼京線の開通により、市内に北与野駅、与野本町駅、南与野駅の3駅が新設され、「さいたま新都心」西側の最寄り駅となる北与野駅では、駅周辺開発事業による駅前広場の整備、ビル群の建設、与野本町駅の西側地区では埼玉県芸術文化の殿堂「彩の国さいたま芸術劇場」が建設され、これまでの市の様相を大きく変えるに至った。
さらに、与野市域が大半を占め、3市合併の契機となった「さいたま新都心」の建設は、平成12年5月に街びらき記念式典が開かれ、同年9月に「さいたまスーパーアリーナ」、「けやき広場」、「ラフレさいたま」が全面オープンした。中枢施設であるさいたまスーパーアリーナでは、音楽・スポーツ・文化などの様々なイベントが開催され、新たな賑わいを創出している。
今なお江戸の面影を感じさせる蔵造りの町並みが残る本町地区や新たに建設された「さいたま芸術劇場」、「さいたま新都心」など、新旧の表情を持ち、人・物・情報が行き交う与野市は、新たな変貌を遂げ、「芸術・文化の中心与野」としての魅力を高めている。