さいたま市の背中(195)『2歳の娘とさいたま市で過ごした1年間について』

どーも、さいたま市民観光サポーターまつです。

前回は1歳の娘とさいたま市で過ごした1年間を記事にしました。
(194)『1歳の娘とさいたま市で過ごした1年間について』

そんな娘が早くも2歳になりました。今回は2歳の娘とさいたま市で過ごした1年間を記事にしたいと思います。



2歳の誕生日は南区の有名店のケーキで祝いました。毎日多くのお客さんで賑わっています。ケーキの画像は撮っていなかったので店頭の看板を(参考リンク:パティスリーアプラノス)。



2歳になった娘は無事に保育園デビューを果たしました。さいたま市は2020年の待機児童数が日本全国ワースト1という汚名を背負った中での「保活」でした。育休中の妻は30以上の保育園に見学に行き、応募結果は第20位の保育園に当選という、難関校並みの試練を突破しました末での入園です。

そんな2歳の1年間を振り返ると、離乳食を卒業し、大人と同じ物を食べられるようになった事で、依然コロナ過ではありましたが外出の範囲が増えました。



我が人生でお子様ランチを注文する日が来るとは思いませんでした。ただし、まだ2歳と小さいので完食まで至らぬことも多く、その後は食費節約の観点からも「親の食事をシェアする」という方法を取りました。ちなみに画像はロイヤルホテルさいたま新都心店のお子様ランチ。

2歳の1年間は行動範囲が一気に広がりました。写真を振り返ってみると、さいたま市外の写真が多くありました。



特に飛行機好きの僕としては、「2歳までは運賃が無料」というタイムリミットを意識して日本全国を飛び回りました。上は画像は高松市。

もちろん、引き続きさいたま市内の探検も行っていました。



多くの子供に共通して?我が娘も鉄道好きになりました。コロナ過の鉄道博物館は事前チケット購入に移行しました。我々が行った時は開館する朝10時から楽しみました。娘が気に入った電車に居付いてしまったので引き離すのが大変だったことを思い出します(参考リンク:鉄道博物館)。



別所沼公園は自転車の距離なので気が向いたら行っていました。やはり小さい子供は大きな公園に行くとテンションが上がりますね(参考リンク:別所沼公園)。



独身時代に一人で行っていた、けやき広場(さいたま新都心)のイルミネーションは子供と行くようになりました。これは最早デートだ。ちなみにこの記事の中での「お子様ランチ」を除いて全て父子との行動です。インドア派の妻が加わると、買い物とか近所のファミレスとか、日常の範囲での外出が多かったですね(参考リンク:けやき広場イルミネーション)。



先日記事にした南与野のブルーシールのアイスは娘との行き付けになりました。こちらも親子でシェアをしていますが大半は娘に強奪されます(参考リンク:ブルーシール南与野店)。

「子供は3歳までに一生分の恩返しをする」と言われるけど、まさにその通りだなぁと思います。0歳も1歳もその歳なりの可愛さがありますが、2歳の時が一番楽しく、可愛かったかなぁ。会話も少しずつ出来るようになったし。3歳になっても同じことを言ってるかも知れませんが。

そんなわけで2歳の娘と過ごした1年間を振り返ってみました。今後とも温かく見守ってくださいますようお願い申し上げます。なおリアルタイムでは来月に3歳になりますので、このシリーズは今回でおしまいです。私事の記事にはなりますがお付き合い頂きありがとうございました。少しでもさいたま市での育児にイメージを持ってもらえたなら幸いです。

おしまい。

(参考リンク)
さいたま子育てWEB

さいたま市の背中(194)『1歳の娘とさいたま市で過ごした1年間について』

どーも、さいたま市民観光サポーターまつです。

前回は0歳の娘とさいたま市で過ごした1年間を記事にしました。
(193)『0歳の娘とさいたま市で過ごした1年間について』

そんな娘が早くも1歳になりました。今回は1歳の娘とさいたま市で過ごした1年間を記事にしたいと思います。



1歳を迎えた誕生日は新居で迎えました。妻は引き続き育休、僕はフルタイムで働き、妻の育休手当があるとはいえ僕の一馬力で家計を支えていました(大変だった!)。もちろん家庭・育児は妻が支えてくれていたので、総合的にはフェア、あるいは僕の負けかも知れません。

娘が1歳になった頃から新型コロナウイルスが世の中に広がりはじめました。社会的に大きな混乱が起きましたが、1歳児の育児となると保育園にも行っていないし、妻も育休中だし、我々はそんなに大きな影響は受けませんでした。旅行のキャンセルなどはありましたが。

とはいえ、自分で歩ける足を手に入れた娘とは、自転車でさいたま市内の色々な場所を巡りました。



コロナ過の当初は公園で遊ぶにも躊躇するような雰囲気でした。実際に遊具は使用禁止になったりしていました。写真の別所沼公園は市内有数の面積を持つ大きな公園ですが、その広さを目的に人が多く集まり、結果的に密になるという状況になっていた日もありました(参考リンク:別所沼公園



伊勢丹浦和店の屋上は独身時代から僕が良く行っていた穴場スポット。イベントなどが開催されていなければ広々しています。昔はゲームセンターとかあったけども。空が近くて気持ちの良い空間です(参考リンク:伊勢丹浦和店)。



オフィスビルが建ち並ぶさいたま新都心(駅の西側)は休日はガランとしていて広場を独占状態できます。



長い滑り台も滑れるようになりました(参考リンク:一ツ木公園

そんな感じで「育休中の妻の息抜き」という名目ではあるけど、僕自身のリフレッシュや探検のためにも娘を連れ出して市内の色々な所に行きました。娘も楽しんでくれていた、と思います。


しかしそんな娘も1歳半になると自我が芽生えはじめ、いわゆる「イヤイヤ期」あるいは「魔の2歳」が近付いて来たことを予見させます。



こんな感じですね。盛大に色々な場所で転がっていました。画像の場所は→(参考リンク:花と緑の散歩道

そんな日々を過ごしていて分かったことは「育児は一人では無理ですね」ということ。実際に追い詰められてしまう人もいるだろうな、ということは想像に難くありません。娘が1歳の時に我々は直接的に行政の窓口にお世話になることはなかったけど、さいたま市でも色々な育児相談・支援があるのだぁというのは調べていて実感しました。

我々の本番は妻の育休が終わり、娘が保育園に通う2歳から。それまでの2年間はコロナ過というイレギュラーはあったけど、娘と過ごせた日々は貴重な時間でした。ものすごーーーく、あっという間でしたけども。

そんなわけで1歳の娘と過ごした1年間を振り返ってみました。今後とも温かく見守ってくださいますようお願い申し上げます。

おしまい。

(参考リンク)
さいたま子育てWEB

さいたま市の背中(193)『0歳の娘とさいたま市で過ごした1年間について』

どーも、さいたま市民観光サポーターまつです。

4月に娘が産まれ、家族に加わりました。妻は約1年間の育休、僕も勤務先の理解があり育休を分割で合計2ヶ月弱取得しました。親族を頼れなかったこともあり、今でもこの育休期間については妻に「助かった」と言われています。何が大変だったって、一言で言えば「寝られなかった」という記憶が一番濃いです。男性は育休を取った方が良いぞ!(取れたら)。

そんなわけで娘が0歳のうちはさいたま市で過ごすことも多くありました。そんなさいたま市民の1年間の育児期間を振り返ってみたいと思います。



当時は桜区(旧与野市)の賃貸マンション(2LDK)に住んでいた我々夫婦。同棲開始時は子供ができることを想定していなかったので二人で十分な広さでした。JR埼京線南与野駅から徒歩10分弱で家賃は8万円。近隣の相場と比較して安め、だったと思います。

出産前には区の保健所で開催された「出産前教室」で抱っこやおむつ交換の仕方、「乳児の首や身体を揺さぶっちゃだめ!」などの教育を受けていました(参考リンク:出産前教室)。

出産後は保健師が自宅に訪問してきて、インタビューや体重測定などをしてくれました。行政の連携は凄いなぁと感心(参考リンク:妊産婦・新生児訪問)。

当然ながら育児初体験の我々。当初は節約のために「ベビーベッドを買わないでも大丈夫か」と思い床に敷いた布団で寝かせていました。



しかし気が付いたら変なところで寝ているので、



ベビーベッドを買いましたさ(一番安いの)。最初から買っておけば良かった。



8ヶ月目にはつかまり立ちをするようになりました。初めて歩いた瞬間は多くの両親にとって記録物ですが、我々の場合は「気が付いたら歩いていた」でした。初めて靴を履いて外で歩いたのが北浦和公園。家での裸足と感覚が違ったのか大泣きをしました(ちなみに北浦和公園の管轄は市ではなく埼玉県)。



僕の旅の友にもなりました。生まれた年に沖縄を旅行。海無し市のさいたま市民、早くも海を知りました。本人は覚えちゃいないだろうけど。

マンションでの育児といえば、昼夜を問わない子供の泣き声による近所への迷惑を考えてしまいますが、我々の部屋(角部屋)の隣は自宅介護の高齢者が住んでいて、そこの娘さんが「賑やかだとウチのおばあちゃんが元気になるのよねー、だから気にしないで!」と言ってくれたのが救いでした。

そんな感じで近所には恵まれていたのですが、家の狭さは如何に工夫をしても限界があります。



そのため年が明けて南区に家を買いました(35年ローン)。娘、10か月目。

実家が南区にある僕は、20代から中央区で一人暮らしを始め、桜区で同棲・結婚をして、約10年振りに南区に戻ってきました。隣の芝は何とやらで、いざ住んでみると「さいたま市以外の選択肢があったのではないか」と思わなくはなかったけど、冷静に考えればトータルでは良い選択肢だったのかなと思っています。長年、マイカーもマイホームもマイチルドレンもいない生活でしたが、この一年間でその全てを揃えました。



娘は桜の季節に産まれました。とはいえ、産まれた当初は外出もできず家に籠っていたので桜の記憶があまりありません。1年経ってようやく桜を見上げることができたような気がします。

そんなわけで0歳の娘と過ごした1年間を振り返ってみました。今後とも温かく見守ってくださいますようお願い申し上げます。

おしまい。

(参考リンク)
さいたま子育てWEB

さいたま市の背中(192)『父になってきた(さいたま市で)』

*前回に続きこの記事の時間軸は世界中の誰もがコロナウィルスなんて知らない時代のものです(つまりコロナ過前)。

どーも、さいたま市民観光サポーターまつです。

4月の暖かい日、僕は埼玉県内の職場を昼前に早退し、さいたま市立病院に向かっていました。職場の最寄り駅のホームで電車を待っていると一通のLINEを受信。義母からでした。クールな義母らしくたった一言。


「先ほど産まれました」



間に合わなかったかっっっ!

話は前日に遡ります。

昼過ぎに定期の妊婦健診でさいたま市立病院に一緒に行きました。この日の妻はいつもと違い「昨晩はお腹が痛くて寝られなかった・・・」と言っていました。出産予定日はもう少し先のはず。

さいたま市立病院は1953年に開院した大きな老舗病院です。今回の出産にあたりさいたま市立病院を選択したのは、さいたま市民だから・・・というのも無くは無いですが、端的に言えば成り行きでした。



さて、診察の結果「このまま入院しましょう」と想定外のことを言われました。僕は急遽単身で自宅に戻り「来るべき日」のために用意していた必需品が纏められているスーツケースを病院に搬入し、妻ともに人生で初めて病院に泊まり込むことになりました。

やがて夜も更け「もしや今夜中に産まれるか!?」とソワソワしている間に僕はイビキをかきながら寝落ちたらしく、「ウルサイから出ていけ」と妻にマジ切れされ、「じゃあ」ということで明け方に応援に来た義母にバトンタッチをし、所在を無くした僕は早朝にやり残した仕事をするために出社をし、昼前に再び病院に戻ってくる道中で産まれてしまった、という流れです。



元々お互い出産時の立ち合い希望はありませんでした。しかし病室の前でソワソワしつつ、やがて「オギャー」という第一声を聞き、看護師に「おめでとうございます!」と祝福され、息を切らす妻に「良く頑張ったなぁ」と労う、というドラマのような展開は体験することは叶いませんでした。

病院に到着をし、まず妻の病室を訪問。闘いを終えた妻は疲労や寝不足を隠さず気が抜けた表情をしていました。「良く頑張ったなぁ」という当初の予定とは違い「大丈夫か?」という心配が妻への第一声であったと記憶をしています。

我々の子を見に行きましょう、ということで院内を移動して一緒に新生児室を訪問。大勢の赤ちゃんが保育器に入っている。起きてバタバタしている子がいれば、寝入っている子も。我が子はどこじゃ。既に居場所を知っている妻はその間を通り抜け我が子の場所に直行。



我が子にご対面。名前はまだ無い。この瞬間、僕は何を想ったか。可愛いなぁでもなく、小さいなぁでもなく、「君はどこからやって来たの?」という疑問。もちろん妻のお腹の中からではあるのだけど、そういう意味ではなく、それよりもっと前の生命の起源とか神秘なレベルの話。その次は「不良になるなよ」という10年早いお願い事。



「オレにも子供が出来たなぁ!」と一番実感したのが、後日仕事から帰宅したら退院した母子が自宅にいた時のこと。これから何年も一緒に暮らして行くのだなぁという感情は病院ではなく自宅で初めて得ました。



性別は女の子。長男としては「跡取りとして男子!」と思わなくも無かったのですが、いざ産まれて来ると「女子も良し!」というのが本心です。名前は出産前に幾つか候補を挙げていて、実際に対面した時に確定をしました。出生届は婚姻届も提出した南区役所。今度は夜間窓口ではなく堂々と日中に行きました。

出生届を提出したことによりさいたま市民が一人公式に追加されました。ぜひさいたま市民の一員として温かく迎えて頂ければ幸いです。

あと、さいたま市立病院で大勢の医師・看護師・その他医療スタッフに大変お世話になりました。会うスタッフ全てがプロで、妻子をサポート頂いたことはもちろん、僕自身も職業人として多くの感銘を受けました。現在はコロナ過で大変な時期だけど、医療スタッフの日々の貢献には心から敬意を表します。

おしまい。

(参考リンク)
さいたま市立病院

さいたま市の背中(191)『結婚式をしてきた(さいたま市で)』

*この記事の時間軸は世界中の誰もがコロナウィルスなんて知らない時代のものです(つまりコロナ過前)。

どーも、さいたま市民観光サポーターまつです。

前回の記事はさいたま市の南区役所に婚姻届を提出しに行った一部始終でした。婚姻届を提出したら次の大きなイベントは何か。


そう、結婚式でございます。

元々僕は結婚式には非常に後ろ向きでした。その理由は「お金が無い!」「呼ぶ人がいない!」という何とも情けないものでした。しかし妻の合意が得られなかったこと、そして周囲の「お前に決定権は無い」という全否定を受け、最終的にやることを決意しました。



しかし上述の通り無い袖は振れぬ。そこで妻と協議をした結果、以下の条件で合意に達しました。

・予算をかけない!
・規模を求めない!
・地元で実施する!

何だか自治会のイベントみたいな条件ですが、いずれにしてもこの条件で我々のプロジェクトは走り始めたのです。特に3つ目の条件が重要であり、それが今回の記事のネタにした理由です。ちなみに我々夫婦は長年さいたま市民(旧浦和市民)であったので、場所については意見の相違はありませんでした。



さいたま市内の結婚式場でアクセスが良さや選択肢の多さという視点になると自然と大宮かさいたま新都心になります。浦和にも無くは無いけど、浦和には我々の条件に合う会場がなかったので早々に選択肢から外れています。まぁ浦和は文教都市ですからね。結婚式みたいな華やかな場所はやはり大宮周辺に軍配が上がります。



何ヶ所か下見をした結果、選んだのは大宮区にある「アルピーノ」という1969年創業の老舗フレンチレストラン。いわゆる「レストランウエディング」というやつですね。ここが我々の3つの条件を全て満たす会場でした。お世話になったウエディングプランナーによると「アルピーノ」はウェディング業界では有名な場所なのだそうです。



会場が決まった以降は数か月間に渡り様々な準備に入るわけですが、色々な物を手作りで準備しつつ、購入やレンタルとなった物(花や衣装など)に「原価は幾らなのだ!?」と驚愕しつつ、「結婚式準備が最初の離婚危機」というジンクスを身に染みて感じつつも乗り越え、何とか結婚式当日を迎えることができました。季節は晩秋の11月でした。



こういうのとかね、手作りをしたわけです。まぁデザインしたのは妻で、僕は印刷をしたくらいでしたが。



アルピーノでは教会式の挙式にも対応。教会式に憧れる女性は多いと思いますが、妻はキリスト教徒なので正真正銘の教会式で実施、神父は知人というコスパの良さを発揮。色々な作法があるようですが、僕は指示されるがまま、感動する暇も無し。



披露宴会場はこんな感じ。ゲストが入る直前に撮ったものです。ゲストは40名弱。「呼ぶ人がいない!」と悲鳴を上げていた僕も、最終的には情に厚い友人、同僚が日本全国からさいたま市に駆け付けてくれました。ありがたい。さいたま新都心の鉄道アクセスの良さが発揮されました。



レストランウエディングのポテンシャルが存分に発揮された料理。自家製パンは追加可能。あまりにも美味しくて「そんなにバクバク食うもんじゃねぇ!」と招待者席の友人から突っ込みを頂いたくらい。だって美味しかったんですもの。



料理だけではなくウェディングケーキもアルピーノが作成。頂上のキャラをご存じの方はいますかね()。「ウェディングケーキは美味しくない」という都市伝説な話を聞いたことがありますが、そんなことは無くとても美味しかったですよ。



そんなわけであっという間に宴の後。会場を出たのは18時頃。たった半日弱だったのに長かったような短かったような。アルピーノやさいたま新都心の駅前もイルミネーションが点灯する時間です。



華やかな空間を後にして自宅に戻ります。さいたま市内で結婚式をやると帰りが楽だわ!と実感。多分最初で最後の感覚だろうか。どこかのホテルで結婚式をしたらその晩はそこに泊まるのかな?

さて、さいたま市で婚姻届→結婚式と記事にしてきて、次は新婚旅行か!?となりそうですが、さすがに新婚旅行先をさいたま市内にしたら離婚モノ。旅行先は沖縄の宮古島でした。



そんなわけでさいたま市の老舗フレンチレストラン、アルピーノでレストランウエディングを行ったという記事でした。さいたま市には沢山の結婚式場があります。挙式をする際はアルピーノも選択肢に加えてみてはいかがでしょうか!



さいたま観光国際協会の当ブログ担当からも祝電を頂いた!ありがたし!

おしまい。

(参考リンク)
フランス料理アルピーノ
アルピーノウエディング